2006年度 徳島大学 共通教育 教養科目群
EDB
生活と社会 / Living and Society
意味喪失と生きるための意味
教授・吉田 浩 2単位 後期 金(9・10) 全(全)
偉大なる社会学者であるM·ウェーバーは歴史の進展過程を合理化として捉える.合理化とは,社会が魔術という非合理的要素から全面的に解放されたということである.従って非合理的要素が徹底的に排除されて,ひたすら合理的に透明となった社会を理性によって捉え,加えてそれを統制し,制御していくことも可能となってきたということでもある.ところが他面でウェーバーは,この合理化過程を社会から意味が喪失する「意味喪失」の過程でもあると看做すのである.およそこの世には生きるための意義があり,意味があるからこそ,我々は日々を生きていくことができるのであるが,近代の合理的社会においてこの意味が喪失したというのであるから,ウェーバーはこの事態をもって「破滅的な意味喪失」の時代と特徴づけているのである.加えてウェーバーは晩年のトルストイの見解に全面的に賛同して,近代社会では人間が「死にがい」を完全に喪失し,それゆえ「生きがい」も見失ったとも主張してくるのである.そこでこの「意味喪失」の時代であり,「死にがい」と「生きがい」とを見失った近代社会において,我々はいかに生きたらよいのかが必然的に重大な問題となってくるのであって,ウェーバー研究者もこの問題について研究を重ねているのである.それが省部幸隆氏の『知と意味の位相』であり,内田芳明氏の『ヴェーバー歴史の意味をめぐる闘争』であり,大塚久雄氏の著作集第13巻『意味喪失の文化と現代』等々である.とりわけ省部氏の『知と意味の位相』は深刻な問題提起を内臓しており,知すなわち科学が,この世の意味を見出し,それを科学的に根拠づけていくことが不可能となっていった経過を哲学的に跡づけたものなのである.しかしながら他面においては,この世には立派に意味があり,この意味を解読して人々に教えていくことこそが科学の課題だと指摘する見解も存在しているのである.従ってこの2つの立場を比較·対照させて検討しつつ,私としては科学によってこそ生きるための意味,従って「生きがい」と「死にがい」とを見出すことができるということを論証することを,本講義の目的とする.さしあたり講義の順序としては,省部氏の見解を最初に検討し,次にウェーバーの意味喪失論を考察し,これらの全体において彼らの意味喪失論を克服していきたい
科学による意味破壊という立場と科学によるこの世の意味の解読という立場との比較検証
合理化,意味喪失,生きがいと死にがいの喪失,実体の主体化,本質と現象
生活と社会
生活と社会
ウェーバーがいうように,科学はこの世には意味があるという幻想を破壊していくのではなく,この世の意味を見出し,それを解読していく点に課題があることを学ぶのである.
1.初めにー問題設定
2.同上
3.省部幸隆氏の意味喪失論の批判的検討,その1-省部氏における『知と意味』の位相の分裂による意味喪失についてー
4.同上
5.省部氏の意味喪失論の批判的検討,その2-省部氏における経験科学の問題点と対象に内在する独自の意味
6.同上
7.省部氏の意味喪失論の批判的検討,その3-本質に関する省部氏の見解とその誤謬ー
8.同上
9.省部氏の意味喪失論の批判的検討,その4-本質の二類型としての実体と主体と実体の主体化
10.同上
11.ウェーバーの理解社会学と意味喪失論
12.同上
13.ウェーバーの「死にがい」と「生きがい」の喪失論についてーF·テンニエスの見解との対照においてー
14.同上
15.試験
16.総括ー意味の発見と「死にがい」と「生きがい」の回復についてー
なし
ウェーバー,『職業としての学問』(岩波文庫),『マックス·ヴェーバー宗教社会学論選』(みすず書房),吉田浩著『ウェーバーとヘーゲル,マルクス』(文理閣)
試験の際のレポートと,講義内容に対する疑問,問題点を指摘する小レポートとによって総合的に評価する.疑問,問題点の指摘に対しては講義で答える
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